人形のまち岩槻 重陽の節句 後の雛 

重陽の節句2016 – 人形のまち岩槻

重陽の節句2016  人形のまち岩槻 後の雛と食文化めぐり開催中!!

平成28年9月22日~10月10日

主催:重陽の節句実行委員会

 

健康と長寿を願う「重陽の節句」

江戸時代には「後のひな祭り」という風習が生まれました。

これは九月九日の重陽の節句にひな人形を飾り、大人の女性が幸せと長寿の願いをこめるというもの。

虫干しを兼ねて節句人形を再び飾ることで、傷むのを防いで長持ちさせようという知恵もふくまれています。

——-      全日本人形専門店チェーン小雑誌より    ——-

後の雛のちのひな

「和国の女児、雛遊びをなすこと、古き物語にも出でたり。

上巳の節に拠あるよし、三月の部に注す。

今また九月九日に賞する女児多し。

源氏物語には、尋常にも雛遊びありと見えたれべ場、重陽に翫ばんには、なほさもあるべきか。

俳諧、これを名づけて”後の雛祭”とす。

上巳に対していへるなり」    ———-  滑稽雑談 (正徳三) より

日本の女の子は雛を飾って楽しんで遊ぶことを古い物語にでています。

上巳の節句をとても楽しみ、今九月九日にも雛を慈しみ楽しむ女の子が多いです。

源氏物語にはいつも雛を飾って楽しむと言われ、重陽の節句もまた同じようになさっていたようで。

これを名づけて後の雛まつり」とします。

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〒339-0072  埼玉県さいたま市岩槻区古ケ場2丁目 岩槻工業団地内


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歴史と人形のまち岩槻 城址公園

岩槻城址公園

さいたま市岩槻区太田3-4

現在では城郭のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪かじぐるわ跡(現在の岩槻城址公園)が県史跡に指定されています。

この池にはカワセミの写真を撮ろうと多くのカメラ愛好家が集まります。

今ガマの穂が夏の終わりを伝えています。

鰻の蒲焼はガマの穂からとった名前と言われています。土用のうなぎ

 

 

 

 

 

岩槻公園には、黒門と呼ばれる岩槻城の表門が保存、人形塚とともに人形歴史と人形のまち岩槻 「岩槻城城門(黒門)と人形塚」関係のイベントが開催場所。

 

  • 人形のまち岩槻流しびな

3月3日直前の日曜日 ※雨天決行

  • 人形供養祭

11月3日(文化の日)   ※雨天決行

 左写真 →

手前は『人形塚」・奥は『黒門』

 

 

 

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特別展 徳川家康 埼玉県立歴史と民族の博物館 のご案内

人形のまち岩槻にも徳川家康公は関わりのある戦国一の武将です。

語り継がれる天下人 徳川家康の特別展が開催されます。

2016 徳川家康 埼玉県立 歴史と民族の博物館

  天正18年(1590)、関東に入国した徳川家康(1542~1616)は、関ケ原の合戦を経て、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ、幕府を開きます。

没後には、東照大権現として神格化され、江戸時代を通じて庶民からも尊崇されました。

家康が鷹狩などで訪れたことから、県内には大小さまざまな東照宮が勧請され、家康にまつわる伝承や伝説が生まれました。

本展では、没後400年を記念し、乱世を生き天下泰平を成し遂げた家康の生涯や、ゆかりの名峰を取り上げ、県内の東照宮や家康の足跡を紹介します。

埼玉県立歴史と民族の博物館  徳川家康 資料抜粋

  • 場所  埼玉県立歴史と民族の博物館
  • 開館期間 10月15(土)~11月27日(日)
  • 開館時間 9:00~16:30 (観覧受付16:00まで)
  • 休館日 月曜日 (ただし11/14は開館)
  • アクセス 東武アーバンパークライン 大宮公園駅下車 徒歩5分

 

 

城下町岩槻鷹狩り行列が平成28年11月3日(祝・木)に開催されます。

今年で4回目の開催になるこのイベントは、徳川家康の「将軍鷹狩り行列」と、それを出迎える「岩槻藩行列」の二つの行列が、岩槻駅周辺を行進していきます。

 

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歴史と人形のまち岩槻 岩槻城の歴史

岩槻城は室町時代に築かれた城です。

築城者についは太田道灌おおたどうかんとする説と、父太田道真おおたどうしんとする説、そして後に忍おし(現行田市)城主となる成田氏とする説などさまざまです。

16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山みふねやま合戦(現千葉県富津市)で太田氏資おおたうじすけが戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。

北条氏は天下統一を目指して関東へ進出を図っていた豊臣秀吉と対立。

やがて天正18年(1590)5月20日から豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。

同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長こうりききよながが城主となりました。歴史と人形のまち岩槻 岩槻城

江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りのかなめとして重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。

室町時代から江戸時代まて続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。

城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。

岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪しんしょうじくるわが、沼地をはさんで南側に新曲輪しんぐるわがありました。

また城と城下町を囲むように大構おおがまえが造られました。

城というと、一般的に石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、かんとうでは一般的な城郭でした。

現在では城郭のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪かじぐるわ跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。

どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸でまるで、土塁・空堀からぼり・馬出うまだしなど中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。

 

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歴史のまち岩槻 日光御成街道岩槻藩高札所

歴史と人形のまち岩槻久保宿通りを散策しているとこんなものを見つけます。日光御成街道岩槻藩高札所

誰が書いたのかわかりませんが、手書きで書かれた説明を書き添えておきます。

   主に江戸時代 幕府や藩から法令は名手通じて村の人々に伝えられたり木の札に書いて決められた場所に掲げられました。

高札を掲げた場所を高札場と言いました。

人々の集まる道の辻舟乗り場の橋のたもと、宿場や村々には必ず高札場が設けられていました。

有名な高札場は江戸日本橋品川側岸、京都三条大橋のたもと全国数千か所もありましたが、現在現地に復元されているのは中山道妻籠粛、甲州街道府中宿等があります。

ここでは日光方面初めての辻、左側問屋場の前にありました。

五代将軍綱吉の『生類憐みの令しょうるいあわれみのれい』が掲げられました。

岩付藩でも犬小屋が設けられました。

1550年頃、問屋場といやば旅人の荷物を次の宿場まで運ぶ通信業務をするため馬役人をそろえた場所。

その経費は地元で間口に応じて負担をしました。

ペリーの黒船来航を会津藩等に伝えました。

 

 

 

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歴史のまち岩槻 浄安寺 槍がえしの門

歴史と人形ののまち岩槻 浄安寺 槍がえしの門

江戸時代、岩槻城下の出入り口は、市宿口いちじゅくぐち、諏訪小路口すわこうじぐち、丹過口たんがぐち、林道口りんどうぐち、田中口たなかぐちなどがありました。

それぞれの口には木戸門がもうけられ、番所が置かれていました。

 

このうち田中口門は、屋根が立派な造りの門で、城下の人々は皆、この木戸門を誇りに思っていました。

しかし屋根があり間口が狭いため、馬や荷車の通行には不便をきたしてもいました。

 

あるとき、日光東照宮へ行く将軍の行列がこの木戸を通ろうとしました。歴史と人形のまち岩槻 浄安寺 槍がえしの門
行列は槍を先頭に進んできましたが、屋根が邪魔でやりを立てたままでは通ることが出来ません。

 

行列の供頭ともがしらは「ふとどきである。屋根を取り壊してしまいましえ」と言って取り壊そうとしました。

 

大切な木戸門がこわされては大変とばかり、町人たちは城主・永井直陳ながいなおのぶに訴えでました。

永井直陳は、気が強く心正しいことでは幕府内でも有名で「せっかく今ある屋根を壊すことはない。槍を倒して通りなさい」と供頭に言いました。

 

供頭は槍をかえす(倒す)ことは将軍の威光にかかわることだと言いましたが、直陳が頑として大島千。

しかたなく行列は槍を倒して木戸門を通っていったということです。

 

その後、木戸門は取り払われることになりましたが、壊してしまうのは惜しいと、この門を浄安寺に移設しました。

 

城下の人々はこの門を『槍がえしの門』と親しみをこめて呼ぶようになったということです。

 

  引用資料 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 岩槻市教育委員会

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いろはかるた 『 て 』 歴史のまち岩槻 岩槻城

歴史と人形ののまち岩槻 岩槻城

岩槻城落城の伝説

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げるため関東に攻め込みました。

そして敵対する岩槻城へは徳川家康の部下の一隊が兵数約一万三千をもって攻め寄せてきました。

しかし、そのとき岩槻城主太田氏房は、豊臣軍による小田原城攻撃に備えるため兵を大勢率いて小田原に赴き、城を留守にしていました。歴史と人形のまち岩槻 岩槻城と小田原城

岩槻城攻撃の大将本多忠勝は花積台(春日部市)に櫓を組み城内を偵察したところ、鎧兜に実を固め来攻を待ち構えている多数の武士の姿が見えました。

ところが、たまたま飛んできた一羽の烏からすが一人の鎧武者に止まったため、これは本物の城兵ではなく防備が手薄のため藁人形を鎧武者に仕立てたものなのだと見破られてしまいました。

攻撃側は直ちに城を攻め落とそうと辻村(大字南辻)の鎮守八幡神社境内で甲冑を付けて岩槻城討ち入りの用意をしました。

しかし、攻撃の準備は整ったものの目の前には水かさを増した荒川がものすごい勢いで流れていて、渡れそうにありません。

どうしたらよいものかと思案にくれていたところ、白髪、白装束の老人が白馬にまたがり、荒波をけたてて対岸の久伊豆神社の森に消えていったのです。

「浅瀬があるぞ。あそこで川を渡るのだ」と直ちに命令が下されました。

綾瀬を通って攻め入った大勢の豊臣軍の前に岩槻城は攻め落とされてしまいました。

老人が渡った所は、万一に備え岩槻城の兵が避難する道として川底に石を敷き詰めて作っておいたものでした。

実は綾瀬を渡った白髪の老人は辻の八幡大菩薩で、豊臣軍の来週を岩槻城に知らせるため元荒川を渡ったものでした。

しかし、そのことが逆に仇となり、敵を導き入れることになってしまったということです。

 

     < 引用資料  いわつき郷土文庫 第2集  岩槻市教育委員会 >

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歴史のまち岩槻 華林山 慈恩寺観音② 鉄燈籠

歴史と人形のまち岩槻 慈恩寺観音 伊達房実寄進 鉄燈籠

岩槻(付)城主太田氏房の家臣、伊達与兵衛房実が天下泰平万民豊楽、岩槻城安泰祈願のため天正十七年(1589)寄進したものである。

市指定有形文化財

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いろはかるた 『 て 』 歴史のまち岩槻 華林山 慈恩寺観音

歴史と人形のまち岩槻 華林山 慈恩寺観音

慈恩寺観音は小木人形から車で5分の所にあります。

慈恩寺観音は坂東三十三ヶ所観音霊場の十二番札所でもあり、多くの観光客が訪れます。

慈覚大師と慈恩寺

あるとき、慈覚大師が日光二荒山で「東国で仏教をひろめるにふさわしい霊場を示した前」と祈り、李すももを空高く投げ上げました。

すると紫色の雲がそれを取り巻いて東南の方角へと飛び去っていきました。

慈覚大師が李の飛んでいった東南の方角へ旅して行くと、とある広い野原に一人の老人が突然現れ、「私は長い間大師をお待ちしておりました。ここは仏の教えを広めるのに最適の地です。

是非ともここにとどまり、仏教を広めてください」と懇願しました。

慈覚大師が老人と初めて会った場所は、逢山あいやまの原(相野原あいのはら)と呼ばれるようになりました。

慈覚大師が老人に言いました。

「私は寺を立てて仏教を広める土地を求め、方々を歩いています。

もし私が探し求めている印がなければ、残念ですがこの地に寺を建てることはできません」

すると老人は「実は不思議なことが一つございます。私の家の近くに、わずか一夜のうちに李の木が生え、花が咲いている所があるのです」と言いました。

それを聞いた慈覚大師は大変喜び「私が寺を建てるべき土地はまさにこの地です。

ここに寺を建てましょう。そして李の木を寺の木といたしましょう」と老人に言いました。

念願がかない寺を寺を建てることができた慈覚大師は、寺の境内、建物そして家に至る

までありとあらゆる場所に李の木を植えました。

李の花に埋め尽くされたこの寺は山号が華林山かりんざん(花林山)となりました。

そして、この地の一帯が慈覚大師の修行した唐の大慈恩寺ににていることから、寺の名を慈恩寺と定めたということです。

 

歴史と人形のまち岩槻 慈恩寺観音

 

引用資料 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 岩槻市教育委員会

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いろはかるた 『 あ 』 人形のまち岩槻と綾瀬川 

岩槻は人形のまちとして有名です。

岩槻の人形を昔は水量も豊かななことから岩槻の町を流れる綾瀬川を利用する方法がとられました。

東京の隅田川に通じていたことから、荷船に積んで隅田川に出ると、柳橋に舟を横付けにして荷上げをするのです。

また、他の方法では、陸路で車力によって運んだが、当時飛脚と呼ばれる運送業者がいて、一日がかりで浅草橋あたりの人形問屋まで往復しました。

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