岩槻は歴史的に魅力あるまち、今では人形のまち岩槻として日本全国に知られ言います。
岩槻周辺の地形は、台地と海が複雑に入り組み、起伏に富んでいたものと考えられています。
太古には、海が台地まで迫っていたことを示す『貝塚』跡が「国指定史跡の真福寺貝塚」に、さらに弥生時代の集落跡が、馬込、諏訪山遺跡など、谷津と言われる地形の場所に残っています。
平安時代になると武士団が現れ、岩槻周辺は武蔵七党の一族『野与党』の活躍の地となり、その勢いは戦国時代まで続きました。
鎌倉時代には、鎌倉から東北地方へ至る『鎌倉街道奥大道』が通り、要衝の地としてその重要性を増してきました。
『岩付』という地名の文字として現れるのは室町時代に入ってからで、1380年の合戦を記録した古文書に初めて明記されています。群雄割拠の戦国時代に入ると、関東公方(山内上杉氏)は、古河公方(足利氏)との防衛拠点として荒川(現在の元荒川)沿いに『岩付城』を築いたのは、1457年と言われています。
『岩付城』の築城については諸説がありますが、1567年三船山合戦で太田氏資が戦死するまでは、代々太田氏が城主をつとめました。
その後は、北条氏が支配するようになりました。
更に時代は進み、豊富秀吉は九州を平定するや関東攻略をもくろみました。これに対して、「岩付城」の周囲の防御のための『大構え」と言われる高さ約4m、幅約8m、全長7kmに及ぶ ゛土塁゛ を整備したのは1587年でした。
1590年、秀吉は小田原城を包囲するとともに、関東一円の支城をほとんど攻め落とし、「岩付城」も落城しました。
その後、領地替えをした徳川家康が関東を治めることになり、それに伴い、以来徳川家の親藩・譜代が岩槻城主を勤めるようになりました。資料 来て見て魅せる 城下町いわつき (岩槻区ガイドブック) 抜粋
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