岩槻城城門『黒門』の名で親しまれています。
この城門は、岩槻城の城門と伝えられており、明治時代には埼玉県庁や県知事公舎の正門として、さらには旧岩槻市役所の通用門なとどして、移転、利用されてきました。
岩槻は『人形のまち』 『城下町』として歴史や文化が生きるまちです。
明治維新の頃の岩槻藩は、官軍の進入に対して『勤王一途を誓い、国力相応の御用を勧めたい』と申し、治安維持のための兵を差し出すなど、大きな混乱はなかったと伝えられています。
その後の廃藩置県においても岩槻が如何に中心的な「まち」であったかを語るに相応しい話として、府県統合によって「埼玉県」の県庁所在地を “岩槻” に定められたことです。(1871年明治4年)
たとえ40日の短い期間ではありましたが、芳林寺の本堂に仮庁舎が設けられたと記録に残っています。
しかし、適切な建物がなかったため浦和町の旧浦和県庁舎に移され、以降、浦和町が埼玉県の県庁所在地になりました。
終戦後、地方制度は原則的に国家の統制からはずされたため、各自治体は財政危機を深めることになりました。
この窮乏や財政、税制面から小規模町村を救うための合併による改革案「シャウブ勧告」を受け制定された「町村合併促進法」によって、昭和29年5月岩槻・川通・柏崎・和戸・新和・慈恩寺・河合の一町六村が合併し新しい岩槻町となり、昭和29年7月埼玉県内で13番目になる「岩槻市」が誕生しました。
奇しくも全国で13番目に政令都市となった「さいたま市」と「岩槻市」は合併協定を経て、岩槻市制50周年の節目の年の平成17年4月1日に合併いたしました。
これにより人口118万人の新生「さいたま市」となり ” 岩槻 “ は「さいたま市岩槻区」としてスタートしました。
区民がこれまで培ってきた『人形のまち』 『城下町』として歴史や文化、そして豊かな全など固有の貴重な財産は、「さいたま市」が目指す ” さいたまらしさ ” を醸成するために一役を担うものと期待されています。
資料 来て見て魅せる 城下町いわつき (岩槻区ガイドブック) 抜粋
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