特別展 徳川家康 埼玉県立歴史と民族の博物館 のご案内

人形のまち岩槻にも徳川家康公は関わりのある戦国一の武将です。

語り継がれる天下人 徳川家康の特別展が開催されます。

2016 徳川家康 埼玉県立 歴史と民族の博物館

  天正18年(1590)、関東に入国した徳川家康(1542~1616)は、関ケ原の合戦を経て、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ、幕府を開きます。

没後には、東照大権現として神格化され、江戸時代を通じて庶民からも尊崇されました。

家康が鷹狩などで訪れたことから、県内には大小さまざまな東照宮が勧請され、家康にまつわる伝承や伝説が生まれました。

本展では、没後400年を記念し、乱世を生き天下泰平を成し遂げた家康の生涯や、ゆかりの名峰を取り上げ、県内の東照宮や家康の足跡を紹介します。

埼玉県立歴史と民族の博物館  徳川家康 資料抜粋

  • 場所  埼玉県立歴史と民族の博物館
  • 開館期間 10月15(土)~11月27日(日)
  • 開館時間 9:00~16:30 (観覧受付16:00まで)
  • 休館日 月曜日 (ただし11/14は開館)
  • アクセス 東武アーバンパークライン 大宮公園駅下車 徒歩5分

 

 

城下町岩槻鷹狩り行列が平成28年11月3日(祝・木)に開催されます。

今年で4回目の開催になるこのイベントは、徳川家康の「将軍鷹狩り行列」と、それを出迎える「岩槻藩行列」の二つの行列が、岩槻駅周辺を行進していきます。

 

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2016ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム

2016ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム 10月29日(日)さいたま新都心駅周辺

今年で4回目となる世界最高峰のサイクルロード「ツール・ド・フランス」の名を冠した自転車競技イベント、「J:COM presents 2016ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム。」

ツール・ド・フランス2016で活躍したスーパースターたちが集結し、さいたま新都心駅周辺の特設コースで熱戦を繰り広げる。

ツール・ド・フランスが持つ価値、メッセージ、そして魅力を体感できるチャンスが今年も「さいたま」にやってくる。

距離の短い周囲コースを設定し、南洲もする形式のレースが「クリテリウム」。

「J:COM presents 2016ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム」では、一周3.1kmのコースを走行する。

さいたま新都心の高層ビル群を駆け抜け、「さいたまスーパーアリーナ」を通過する非日常のスピードと迫力をお楽しみください。

     パンフレット より抜粋

人形のまち岩槻 小木人形 雪洞
ところで小木人形の店頭を飾る雪洞が飾られるようになるかもしれません。

 

雪洞は雛人形を引き立たせます。

今回はこの雪洞はどんな役目があるのでしょうか?

お役に立つことになればよいですね~。

 

 

 

 

 

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歴史と人形のまち岩槻 岩槻城の歴史

岩槻城は室町時代に築かれた城です。

築城者についは太田道灌おおたどうかんとする説と、父太田道真おおたどうしんとする説、そして後に忍おし(現行田市)城主となる成田氏とする説などさまざまです。

16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山みふねやま合戦(現千葉県富津市)で太田氏資おおたうじすけが戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。

北条氏は天下統一を目指して関東へ進出を図っていた豊臣秀吉と対立。

やがて天正18年(1590)5月20日から豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。

同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長こうりききよながが城主となりました。歴史と人形のまち岩槻 岩槻城

江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りのかなめとして重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。

室町時代から江戸時代まて続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。

城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。

岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪しんしょうじくるわが、沼地をはさんで南側に新曲輪しんぐるわがありました。

また城と城下町を囲むように大構おおがまえが造られました。

城というと、一般的に石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、かんとうでは一般的な城郭でした。

現在では城郭のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪かじぐるわ跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。

どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸でまるで、土塁・空堀からぼり・馬出うまだしなど中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。

 

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9月22日 秋分の日 

秋分は先祖を敬い亡くなった人をしのぶ日です。

「暑さ寒さもひがんまで」とは言うとおりだんだんと涼しくなってまいります。

お日様のエネルギーのとらえ方なんでしょうか?

強いときも弱いときまた、その中間と、まさに春分・秋分はその日です。

太陽が真西に沈彼岸花 曼珠沙華 秋分の日むことはご先祖様をしのぶには良い時期ということです。

西の方角には極楽浄土があって現世が最も近くなる日が春分・秋分です。

 

ところで、秋のお彼岸と言えば曼珠沙華

今年は曼珠沙華(彼岸花)のお花を今のところ見かけません。

遅いのでしょうか?

 

 

お彼岸のお供え物には「おはぎ」ですね。

おはぎを食べて西日に祈ります。

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月と芋 縁起物の芋を食べてみましょう ♪

中秋の名月は別名『芋名月』と呼ばれています。

中秋の名月には里芋や栗をお供えし、月に秋の収穫を感謝いたします。

里芋は一株で子芋、孫芋とどんどん増えることから、祝い事には欠かせない食材のようです。

今年も芋を使ったお料理で十五夜を楽しみましょう。

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9月19日の敬老の日 長寿のお祝いです ♪



『多年に渡り社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う』日として祝日に昭和41年(1966)に制定されました。

通過儀礼・長寿のお祝い

  • 還暦 61歳

干支が一回りして、生まれた干支にもどる。

  • 古希 70歳

70歳まで生きることは稀なことであると、杜甫が言ったことから

  • 喜寿 77歳

『喜』の草書体が七十七に見えます。

  • 傘寿 80歳

『傘』の略字八十になります。

  • 米寿 88歳

米という字を眼科医してみると『米』となります。

  • 卒寿 90歳

『卒』の旧字体「卆」が九十となります。

  • 白寿 99歳

『百』の字から『一』を抜くと九十九になります。

普段から「ありがたい」という気持ちは持っていてもなかなか思うようには伝わりませんねぇ~。

お孫さんへと初節句のお祝いの雛人形・五月人形も用意してくださっていることと思います。

この9月19日の敬老の日には祖父母、ご両親に感謝の気持ちをお伝えしたいものです。

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月とうさぎ 今年も満月を楽しみにしています♪

「月にはうさぎが住んでいて餅つきほをしている」と楽しくなるお話がございます。人形のまち岩槻 十五夜 月とうさぎ

正倉院の南倉には密陀絵雲兎形赤漆櫃みつだえくもうさぎがたせきしつのひつ」と呼ばれる唐櫃がある。

花樹に跳びかかる2匹の羽の生えた兎が描かれています。

月にはちもともと不老不死の霊薬をつく兎が住んでいて、枯れることのない桂の木が生えているという伝えが中国にはあるようです。

兎はある老人を助けようと燃え盛る火に飛び込んでわが身をささげるその行いを憐み、老人は帝釈天になって姿を現しその遺骨を月に収めて後世までその善行を伝えた。

今でも、兎は童謡とか説話などに親しまれています。

うさぎの大きな耳でぴょんびょんと飛び跳ねることから飛躍のお守りとして、また多産であることから子孫繁栄の象徴として知られています。

 

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歴史のまち岩槻 日光御成街道岩槻藩高札所

歴史と人形のまち岩槻久保宿通りを散策しているとこんなものを見つけます。日光御成街道岩槻藩高札所

誰が書いたのかわかりませんが、手書きで書かれた説明を書き添えておきます。

   主に江戸時代 幕府や藩から法令は名手通じて村の人々に伝えられたり木の札に書いて決められた場所に掲げられました。

高札を掲げた場所を高札場と言いました。

人々の集まる道の辻舟乗り場の橋のたもと、宿場や村々には必ず高札場が設けられていました。

有名な高札場は江戸日本橋品川側岸、京都三条大橋のたもと全国数千か所もありましたが、現在現地に復元されているのは中山道妻籠粛、甲州街道府中宿等があります。

ここでは日光方面初めての辻、左側問屋場の前にありました。

五代将軍綱吉の『生類憐みの令しょうるいあわれみのれい』が掲げられました。

岩付藩でも犬小屋が設けられました。

1550年頃、問屋場といやば旅人の荷物を次の宿場まで運ぶ通信業務をするため馬役人をそろえた場所。

その経費は地元で間口に応じて負担をしました。

ペリーの黒船来航を会津藩等に伝えました。

 

 

 

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中秋の名月は 9月15日です。

2015年の中秋の名月は9月15日で、その翌々日の9月17日が満月となります。

今年は中秋の名月と満月の日が2日ずれています。

 

中秋の名月は、新月となる日から数えて15日目の夜の月を云い、満月は、地球から見て月と太陽が反対方向になった瞬間月のことです。

お月のパワーをお月で戴きましょう。月見 十五夜 中秋の名月

一年で一番お月さまが美しい秋の月、月の光をたっぷり頂いた月見団子を頂くのは有難いことではないですか。

月の満ち欠け

月はおよそ一か月の間にだんだんと丸くなったり、欠けたりしてゆきます。それを毎月同じように繰り返します。

それで一年中の農作業などにやくだてたのです。

秋には特に満月はとっても綺麗に丸く見え、月を眺めて楽しむだけでなく、感謝をしてまいりました。

秋の七草(葛・女郎花・萩・桔梗・藤袴・撫子・薄)と団、芋、果物と一緒に飾ります。

 

 

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歴史のまち岩槻 浄安寺 槍がえしの門

歴史と人形ののまち岩槻 浄安寺 槍がえしの門

江戸時代、岩槻城下の出入り口は、市宿口いちじゅくぐち、諏訪小路口すわこうじぐち、丹過口たんがぐち、林道口りんどうぐち、田中口たなかぐちなどがありました。

それぞれの口には木戸門がもうけられ、番所が置かれていました。

 

このうち田中口門は、屋根が立派な造りの門で、城下の人々は皆、この木戸門を誇りに思っていました。

しかし屋根があり間口が狭いため、馬や荷車の通行には不便をきたしてもいました。

 

あるとき、日光東照宮へ行く将軍の行列がこの木戸を通ろうとしました。歴史と人形のまち岩槻 浄安寺 槍がえしの門
行列は槍を先頭に進んできましたが、屋根が邪魔でやりを立てたままでは通ることが出来ません。

 

行列の供頭ともがしらは「ふとどきである。屋根を取り壊してしまいましえ」と言って取り壊そうとしました。

 

大切な木戸門がこわされては大変とばかり、町人たちは城主・永井直陳ながいなおのぶに訴えでました。

永井直陳は、気が強く心正しいことでは幕府内でも有名で「せっかく今ある屋根を壊すことはない。槍を倒して通りなさい」と供頭に言いました。

 

供頭は槍をかえす(倒す)ことは将軍の威光にかかわることだと言いましたが、直陳が頑として大島千。

しかたなく行列は槍を倒して木戸門を通っていったということです。

 

その後、木戸門は取り払われることになりましたが、壊してしまうのは惜しいと、この門を浄安寺に移設しました。

 

城下の人々はこの門を『槍がえしの門』と親しみをこめて呼ぶようになったということです。

 

  引用資料 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 岩槻市教育委員会

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