いろはかるた 『 て 』 歴史のまち岩槻 岩槻城

歴史と人形ののまち岩槻 岩槻城

岩槻城落城の伝説

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げるため関東に攻め込みました。

そして敵対する岩槻城へは徳川家康の部下の一隊が兵数約一万三千をもって攻め寄せてきました。

しかし、そのとき岩槻城主太田氏房は、豊臣軍による小田原城攻撃に備えるため兵を大勢率いて小田原に赴き、城を留守にしていました。歴史と人形のまち岩槻 岩槻城と小田原城

岩槻城攻撃の大将本多忠勝は花積台(春日部市)に櫓を組み城内を偵察したところ、鎧兜に実を固め来攻を待ち構えている多数の武士の姿が見えました。

ところが、たまたま飛んできた一羽の烏からすが一人の鎧武者に止まったため、これは本物の城兵ではなく防備が手薄のため藁人形を鎧武者に仕立てたものなのだと見破られてしまいました。

攻撃側は直ちに城を攻め落とそうと辻村(大字南辻)の鎮守八幡神社境内で甲冑を付けて岩槻城討ち入りの用意をしました。

しかし、攻撃の準備は整ったものの目の前には水かさを増した荒川がものすごい勢いで流れていて、渡れそうにありません。

どうしたらよいものかと思案にくれていたところ、白髪、白装束の老人が白馬にまたがり、荒波をけたてて対岸の久伊豆神社の森に消えていったのです。

「浅瀬があるぞ。あそこで川を渡るのだ」と直ちに命令が下されました。

綾瀬を通って攻め入った大勢の豊臣軍の前に岩槻城は攻め落とされてしまいました。

老人が渡った所は、万一に備え岩槻城の兵が避難する道として川底に石を敷き詰めて作っておいたものでした。

実は綾瀬を渡った白髪の老人は辻の八幡大菩薩で、豊臣軍の来週を岩槻城に知らせるため元荒川を渡ったものでした。

しかし、そのことが逆に仇となり、敵を導き入れることになってしまったということです。

 

     < 引用資料  いわつき郷土文庫 第2集  岩槻市教育委員会 >

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