歴史と人形のまち岩槻 岩槻城と太田道灌
岩槻城 築城の伝説
岩槻城を築城したとも言われる太田道灌は、城づくりの名人といわれています。
太田道灌は、関東管領扇谷上杉定正かんとうかんれいおおぎがやつうえすぎさだまさに仕え、天文・地勢に詳しく、軍事にも明るいまさに文武を鐘早苗他有能な武将でした。
あるとき道灌は「東に荒川が流れ、西に奥州に通ずる道があり、南には広大な田畑、そして北は見渡す限りの原野が広がる岩槻に築城すれば必ずや名城と呼ばれるような城となることは間違いない」と確信し、岩槻城の築城を決意していましたが一つ問題がありました。
それは、白を構えようとした場所に大きな沼があり、埋め立てが容易なかろうということでした。
いかにすれば沼を埋め立てて築城できるのか。道灌は思案に暮れる日々を送りました。
そんなある日、枯れ枝をくわえた一羽の白い鶴がいずこからともなく飛んできました。
鶴は枝わ沼に落とし、その上に止まって羽を休めたのです。
道灌はこれを見て悟りました。
「岩槻に城をきずくには、あの鶴の知恵を借りればよいのだ。」
道灌は数千人の人夫を動員し近くの山林から木や竹をきりだしました。そしてそれらを束ねて数万もの筏いかだを作り沼に浮かべ、その上に土を乗せました。
沼地は平地へと生まれ変わり、新しくできた土地に道灌は堅固な城を築き上げることができたのです。
こうしてできた岩槻城は、別名白鶴城とも竹束城たけたばとも呼ばれるようになったということです。
< 資料引用 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻市教育委員会 >
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