人形のまち岩槻 人形博物館は2020年2月22日にオープン。
日本初の人形専門公立博物館
雛人形の歴史と由来が分かる人形博物館
さいたま市岩槻区は日本有数の人形産地です。武州の人形産地は江戸市場の供給地として萌芽したものですが、なかでもいわつきは関東大震災以降、東京から職人が移住したことによって大きな産地に成長しました。
節句人形やケース入りの衣装人形、木目込人形が作られ、織物、小道具、桐箱など関連の業者も集まり、ものづくりの技が息づく職人の町となりました。
また、江戸・東京との関係性のなかでも発展してきたさいたまには、江戸で江戸で作られた人形が残されており、市民から寄贈されています。
人形のルーツを物語る信仰的な人形に天児あまがつ、這子ほうこと呼ばれる人形があります。
岩槻人形博物館資料より
三月節供の本来の意味は身の穢れを洗い流す作法から女性とのかかわりが深くなり、憧れの婚礼を模した人形へと変化して行く。
紙製の人形ひとかた現在でも日本各地の神社で行われる、人形ひとかたに自分の名前・年齢を書き身体でなでたりして、また、それに息を吹きかけたりしますが、それはいずれも自分の災厄、穢れを人形・形代・撫で物へ移すということで、神社では神事を行った後にお焚き上げしたり、川や海へと流します。
人形(撫で物) では、昔は、体中をなでた人形(撫で物)の変形として作られたものに天児あまがつ・這子ほうこという出産御祝の品としてのお人形があります。
※「天児」はT字形に組み白絹製の頭の部分をつけ、祓いに用いられる人形の一種。 平安時代からある。 これに赤ちゃんの産着などの衣装を着せて゛けがれ゛のお祓いの形代かたしろとしました。
岩槻人形博物館所蔵品 『天児・這子』
安産のシンボルである犬を象った犬筥いぬばこは、神社の狛犬こまいぬを思わせるようなフォルムですが、頭は人間の子供のように描かれています。
これらは妊婦や産婦、子どもが災難から逃れ、健やかに過ごせるように寝室に置かれました。
岩槻人形博物館資料より
岩槻人形博物館所蔵品 『犬筥いぬばこ』
立雛から座雛へ
雛のかたちは、立雛と座雛に分類されます。
「立雛」は主として紙で作られたもので、一名「紙雛」とも呼ばれます。立雛の方が歴史は古く、形から推察しても天児あまかつ・這子ほうこからきた男女一対の雛人形のように見えます。
きわめてシンプルな形で、厚紙で胴体をなし、そこへと桐塑頭・木で作られた頭を差し込み、面相を整え髪つけをしたものです。
上巳の節句、雛遊と雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたものが座雛であるということです。
しかし、座雛がつくられてすぐに立雛が無くなった訳でなく享保(1716年)頃までは立雛と座雛が対等に飾られています。
そして享保以後は座雛が主、立雛が従となりました。
次郎左衛門雛から古今雛へ
座雛が技術的に完成の城に達したと見られるのは次郎左衛門雛でしょう。
次郎左衛門雛の特徴は、面長に描いた首を整った曲線でまとめ、顔は引目かぎ鼻の典雅な筆で全体に清新な味を表現しています。
男雛は、黒袍に、くぼみに霞の紋が浮織になっている袴をつけています。
女雛は、五衣いつぎぬ、唐衣からぎぬに裳もすそをはいています。
雛人形の中でも佳作の部に属しているといわれ次郎左衛門雛の流行は圧倒的に江戸の人気を独占しました。
次郎左衛門雛の衰退は、京雛に対抗する江戸人の義憤と見る向きもありますが、やはり江戸人の好みにあった江戸雛として、古今雛が登場かるに及んで、全く姿を消しました。
雛に出された奢侈取締令
奢侈しゃし取締令は、士農工商という身分差別をつけて、商人を一番低い身分に置いたが、泰平の世が続くと、商人は財を貯え奉公人を多くかかえ、社会における隠れた支配力を持つようになってくる。
当然これに目をつけるのは徳川幕府の政策で、民間のぜいたくを取り締まるおふれを度々出した。
着るもの、持ち物、遊興に至るさまざまなものに対してである。
奢侈取締令が雛に適用されたのは最初は慶安2年2月(1649年)今から約3百年前のことである。
民間の美化的傾向を取り締まったものだが、徳川家からの注文品は例外としている。
つまり民間にかぎっている。
この時の対象は雛道具であった。
◆雛人形の飾り方
初めは、平らな場所に雛屏風を置き、簡素な作りの雛人形や道具類を並べていたようです。
江戸時代後期になると、ひな段も5段、7段と高くなり、五人囃子や三人官女。随身など、ひな段を賑やかに彩る人形達も登場するようになりました。五人囃子は能の謡と囃子方を表したもので、江戸に好まれたのに対し、三人官女は宮中に勤める女性を表しており、京で生まれたと考えられています。
岩槻人形博物館資料より
極めて小さい人形を芥子人形、雛人形を芥子雛と呼びます。
江戸時代後期には江戸でご苦笑の雛人形や雛道具が流行しました。小さく繊細なものを好む日本人の気質もさながら、江戸幕府の奢侈禁止令しゃしきんしれいで8寸以上の大きさの雛人形が贅沢品として取締の対象となった反動で、このような雛や雛道具が人気を博したとみられます。
上野池之端の七澤屋など、芥子雛や小型の雛道具を扱う名店も登場し、「値は実に世帯をもつより貴し(価格は家を持つより高い)と記されるような、大変高級品も販売されました。
町方を中心に始まった芥子雛やご苦笑の雛道具の流行は、やがて上層にも及び、将軍家や大名家の奥向きでも飾られるようになりました。岩槻人形博物館資料より
岩槻人形博物館
〒339-0057 さいたま市岩槻区本町6丁目1-1
Tel 048-749-0222
fax 048-749-0225
記事 岩槻人形博物館資料より