秋分の日の十五日前にあたります『白露はくろ』夏から秋へ移り変わります。
草木に露が宿り秋の気配漂うこのころから季節の深まりを感じます。
七十二候
- 草露白そうろしろし
草に落ちた露が白く光る
- 鶺鴒鳴せきれいなく
セキレイが鳴きはじめる
- 玄鳥去げんちょうさる
ツバメが南を指して去って行く



赤ちゃん授乳室完備
草木に露が宿り秋の気配漂うこのころから季節の深まりを感じます。
七十二候
草に落ちた露が白く光る
セキレイが鳴きはじめる
ツバメが南を指して去って行く
岩槻(付)城主太田氏房の家臣、伊達与兵衛房実が天下泰平万民豊楽、岩槻城安泰祈願のため天正十七年(1589)寄進したものである。
市指定有形文化財
慈恩寺観音は小木人形から車で5分の所にあります。
慈恩寺観音は坂東三十三ヶ所観音霊場の十二番札所でもあり、多くの観光客が訪れます。
慈覚大師と慈恩寺
あるとき、慈覚大師が日光二荒山で「東国で仏教をひろめるにふさわしい霊場を示した前」と祈り、李すももを空高く投げ上げました。
すると紫色の雲がそれを取り巻いて東南の方角へと飛び去っていきました。慈覚大師が李の飛んでいった東南の方角へ旅して行くと、とある広い野原に一人の老人が突然現れ、「私は長い間大師をお待ちしておりました。ここは仏の教えを広めるのに最適の地です。
是非ともここにとどまり、仏教を広めてください」と懇願しました。慈覚大師が老人と初めて会った場所は、逢山あいやまの原(相野原あいのはら)と呼ばれるようになりました。
慈覚大師が老人に言いました。
「私は寺を立てて仏教を広める土地を求め、方々を歩いています。もし私が探し求めている印がなければ、残念ですがこの地に寺を建てることはできません」
すると老人は「実は不思議なことが一つございます。私の家の近くに、わずか一夜のうちに李の木が生え、花が咲いている所があるのです」と言いました。
それを聞いた慈覚大師は大変喜び「私が寺を建てるべき土地はまさにこの地です。
ここに寺を建てましょう。そして李の木を寺の木といたしましょう」と老人に言いました。念願がかない寺を寺を建てることができた慈覚大師は、寺の境内、建物そして家に至る
までありとあらゆる場所に李の木を植えました。
李の花に埋め尽くされたこの寺は山号が華林山かりんざん(花林山)となりました。そして、この地の一帯が慈覚大師の修行した唐の大慈恩寺ににていることから、寺の名を慈恩寺と定めたということです。
引用資料 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 岩槻市教育委員会
岩槻の人形を昔は水量も豊かななことから岩槻の町を流れる綾瀬川を利用する方法がとられました。
東京の隅田川に通じていたことから、荷船に積んで隅田川に出ると、柳橋に舟を横付けにして荷上げをするのです。
また、他の方法では、陸路で車力によって運んだが、当時飛脚と呼ばれる運送業者がいて、一日がかりで浅草橋あたりの人形問屋まで往復しました。
岩槻城を築城したとも言われる太田道灌は、城づくりの名人といわれています。
太田道灌は、関東管領扇谷上杉定正かんとうかんれいおおぎがやつうえすぎさだまさに仕え、天文・地勢に詳しく、軍事にも明るいまさに文武を鐘早苗他有能な武将でした。
あるとき道灌は「東に荒川が流れ、西に奥州に通ずる道があり、南には広大な田畑、そして北は見渡す限りの原野が広がる岩槻に築城すれば必ずや名城と呼ばれるような城となることは間違いない」と確信し、岩槻城の築城を決意していましたが一つ問題がありました。
それは、白を構えようとした場所に大きな沼があり、埋め立てが容易なかろうということでした。
いかにすれば沼を埋め立てて築城できるのか。道灌は思案に暮れる日々を送りました。
そんなある日、枯れ枝をくわえた一羽の白い鶴がいずこからともなく飛んできました。
鶴は枝わ沼に落とし、その上に止まって羽を休めたのです。
道灌はこれを見て悟りました。
「岩槻に城をきずくには、あの鶴の知恵を借りればよいのだ。」
道灌は数千人の人夫を動員し近くの山林から木や竹をきりだしました。そしてそれらを束ねて数万もの筏いかだを作り沼に浮かべ、その上に土を乗せました。
沼地は平地へと生まれ変わり、新しくできた土地に道灌は堅固な城を築き上げることができたのです。
こうしてできた岩槻城は、別名白鶴城とも竹束城たけたばとも呼ばれるようになったということです。
< 資料引用 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻市教育委員会 >
岩槻の『時の鐘』は、四里四方に響きわたっていたといわれ、「岩槻にすぎたるものが二つある 児玉南柯と時の鐘」とうたわれるほど岩槻の人々の誇りになっています。
県内には川越や行田にも再鋳された鐘はありますが、岩槻の「時の鐘」が最も古いものです。
岩槻城下の時の鐘は、寛文十一年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。
渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。
50年後の享保五年(1720)、鐘にひびがはいったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。
鐘は一日三回撞かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、一日十二回撞かれていたようです(『新編武蔵国風土記稿しんぺんむさしのくにふどきこう』他)。
鐘楼は、嘉永六年(1853)に岩槻藩により改建されており
(棟札銘むなふだめい)、方13.1メートル、高さ2.1メートルの塚の上に立っています。
時の鐘(さいたま市岩槻区本町6-2-28)
東武アーバンパークライン(野田線)「岩槻駅」より徒歩10分
連日台風10号による豪雨によりました多大な被害がありましたことは、ニュース等で知りました。
被災されました多くの方々には心からお見舞いを申し上げます。
一日も早くご復興なさいますようお祈り申し上げます。
『児玉南柯』は遷喬館という私塾を開き子弟の教育に力を注ぎました。
『時の鐘』は、1671年岩槻城主阿部正春が渋江口に設置し、後に改鋳を経て現在に伝わるものです。
埼玉県さいたま市岩槻区本町4丁目8−9
南千倉海岸にある元順号遭難救助の碑
千葉県安房郡千倉町(現・南房総市)1981年友好都市提携
安永9年(1780)に当時岩槻藩領であった千葉県千倉へ清国の舟が漂着した事件をその処理に郡奉行として携わった南柯の業績を物語る伝説
江戸時代、岩槻藩主に仕えた儒学者の児玉南柯は多くの著作などをのこしています。
そのうち南柯が書いた書物版木が菩提寺の 浄安寺に保存されています。
浄安寺の境内には大きなしだれ桜がありました。
その花が咲くころには、ほかにたとえようもないほどの美しさだったと言われています。
桜のかたわらには寺の鐘撞きかねつき堂があり、浄念じょうねんという名18・9歳になる小坊主が毎日金を撞いていました。
ある日のこと、浄念が金を撞き終えて堂から降りてくると、桜の花の下に美しい少女が立っていました。
次の日、また次の日も、少女が花の下に立って浄念に微笑みかけているのです。
浄念は朝のくるのが楽しみでなりませんでした。
この少女の名を妙といい、二人はだんだん親しくなっていきました。
このころ児玉南柯は『漂客紀事ひょうきゃくきじ』という本を書き上げて殿様のお目にかけたところ、殿様はたいそう良いできばえだとほめたたえ「さっそく版を起こして人々に読ませなさい」と南柯に言いました。
しかし南柯は「版木になる桜の木がないので困っています」と殿様に申し上げました。
すると殿様は「桜か・・・・・・。あるある、浄安寺の境内にある大きなしだれ桜がいい。住職に話しなさい」と言いました。
「でも、あのように美しい花の咲く桜を切ってしまっては寺の風情にかかわります」と南柯が申し上げると殿さまは「いやいや、よろしい。先生の学問のためには桜も喜んで犠牲ななってくれよう。天下の名文を埋もれさせることはできない」
浄安寺の住職もこの話を聞き、南柯先生のためであるからぜひお役に立ててほしいと、大きなしだれ桜の木を提供しようと申し出ました。
桜を切り倒す日になりました。妊婦がおおきなのこぎりでその根元を切り始めると、驚いたことに真っ赤なおかくずが血潮のようにあふれ出しました。
それだけではありません。桜は、のこぎりを動かすたびに泣くように、訴えるように、叫ぶように、まるで生き物を殺生するような恐ろしい響きをたてて切られていったのです。
その嫁のことです。息苦しくてなかなか寝付かれない浄念がふと障子を見ると、あの妙の姿が幻のように障子に映っているではありませんか。
「浄念さま、長らく深いお情けをいただきましたが、もうお会いすることができません。実は、私は桜精なのでございます。
南柯先生の版木になるために切られましたので、この世から消えなければなりません。お名残りおしゅうございますが、これでお別れいたします。と言い残してすーっと消えてしまいました。
浄念は妙の話を聞き、驚きのあまり気を失って寺を出て行き、いずこかへと姿を消してしまいました。
その後、真夜中になると誰もいないのに鐘楼の鐘が悲しい響きを立てて鳴るようになったということです。
< 資料抜粋 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 岩槻市教育委員会 >
玄奘三蔵霊骨塔
境内の十三重霊骨塔には、中国の古典『西遊記』でおなじみの三蔵法師玄奘の遺骨が分骨され、安置されています。
西遊記(孫悟空物語)で知られる三蔵法師(玄奘)は、西暦602年中国に生まれ、経典を求めて、天竺(インド)を志し幾多の辛苦を克服して、17年に亘って仏典の蒐集研鑽に励み、しかも帰国後63歳で遷化されるまでに、大般若経(600巻)等千三百余巻の経典を訳した。
その行跡は、中国日本佛教史上に不滅の光りを放つ不世出の高僧である。
さいたま市岩槻区慈恩寺139 華林山 慈恩寺
境内には、樹齢数百年と言われる藤の花をはじめ、牡丹・紫陽花・躑躅・西洋藤と言われるキングサリの花が咲き乱れ、元荒川の岸頭には桜並木が続き、埼玉の自然百選、岩槻の観光名所として風光明媚なお宮であります。
又、門前には、鯰の天麩羅、鰻の蒲焼き、鯉料理等で有名な老舗川魚料理店が立ち並んでおります。
その昔、岩槻城下の繁栄を極めたる当時、江戸城の鬼門寺として有名な華林山慈恩寺や、日光廟に往来した諸人は、日光街道を曲げて現在の元荒川沿いを下って岩槻城下の第六天神社に奉拝したという記録が残されている。
また、戦国の世に、岩槻城主太田氏の将兵の信仰を得て、岩槻城下に暮らしを立てていた武士や町民や商人、農村の人々が、この草深い祠に奉拝して霊宝を賜ったといわれている。
殊に農民の豊饒為福、商人の商売繁盛を図るには第六天神社の御神札がなくてはならないぬものであった。
年に一度、向かい天狗の絵馬と神札をおし戴いて家郷に持ち帰り、家内安泰・作物豊饒・災厄除去を祈れば、その霊験顕れて、秋の実りの収穫となり再び御礼に参り、年々信心者が殖えて、今日の第六天神社の大きな基盤となったのであります。
御眷属—天狗様
天狗様は第六天神社の御眷属(御使役)であり、諸々の心願や信仰の仲立ちされる役目を御持ちになり、古来から手書きの手法で伝わる向かい天狗絵馬を授かる人々は跡を絶たず、御神徳の雄大無限なるあらたかさを伝えております。
また、現在社殿の中に大切に保存されております御神木は、大天狗、烏天狗が宿り、奉拝者にご神徳を授けたと称され、今日も尚、災厄除去・無病息災のために御神木に触れる事を唯一の念願として奉拝する崇敬社でにぎわっております。
——– 武蔵第六天神社 配布資料より抜粋 ——–
天狗が昼寝をした杉
元荒川のほとりにある第六天神社は、桜の咲くころは大変美しい景観を見せています。
この第六天神社のご神木とされている大きな杉の木は、その昔、天狗が昼寝をした木なのだという言い伝えがあります。
杉の木のどの枝にどんな格好をして昼寝をしていたのでしょうか。いまとなっては知るすべもありません。
残念ながら天狗が昼寝をしたという杉の木は、昭和48年(1973年)の社殿改築の時に切り倒されて、現在では残っていません。
——– いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 さいたま市教育委員会 ——–