鹿
日本では奈良の春日大社の神鹿など鹿への信仰があります。
夏の着物で鹿と紅葉の文様をあしらった帯の和服姿の女性をこの盛夏にみかけました。
季節を先取りして涼感を感じさせてもらえる粋なものでした。
秋と言えば九月・十月・十一月の三月をさします。
九月八日は草木に露が宿り秋の気配漂う「白露」です。
夏から秋へ移り変わります。
活発な季節から静かさを味わうとっておきの季節を楽しみませんか。

(岩槻工業団地内)
赤ちゃん授乳室完備
鹿
日本では奈良の春日大社の神鹿など鹿への信仰があります。
夏の着物で鹿と紅葉の文様をあしらった帯の和服姿の女性をこの盛夏にみかけました。
季節を先取りして涼感を感じさせてもらえる粋なものでした。
秋と言えば九月・十月・十一月の三月をさします。
九月八日は草木に露が宿り秋の気配漂う「白露」です。
夏から秋へ移り変わります。
活発な季節から静かさを味わうとっておきの季節を楽しみませんか。
江戸時代には「後のひな祭り」という風習が生まれました。
これは九月九日の重陽の節句にひな人形を飾り、大人の女性が幸せと長寿の願いをこめるというもの。
虫干しを兼ねて節句人形を再び飾ることで、傷むのを防いで長持ちさせようという知恵もふくまれています。
——- 全日本人形専門店チェーン小雑誌より ——-
後の雛
「和国の女児、雛遊びをなすこと、古き物語にも出でたり。
上巳の節に拠あるよし、三月の部に注す。
今また九月九日に賞する女児多し。
源氏物語には、尋常にも雛遊びありと見えたれべ場、重陽に翫ばんには、なほさもあるべきか。
俳諧、これを名づけて”後の雛祭”とす。
上巳に対していへるなり」 ———- 滑稽雑談 (正徳三) より
日本の女の子は雛を飾って楽しんで遊ぶことを古い物語にでています。
上巳の節句をとても楽しみ、今九月九日にも雛を慈しみ楽しむ女の子が多いです。
源氏物語にはいつも雛を飾って楽しむと言われ、重陽の節句もまた同じようになさっていたようで。
これを名づけて後の雛まつり」とします。
後の雛祭りも上巳のひな祭りも同じ行事です。
新しい年の初め、七草をお粥に仕立てて食し、一年の邪気払いをする。
1月1日は特別の日とされ、奇数の重なる日を選らばれているが1月だけは7日になっている。
三月三日=上巳の節句(桃の節句)
婦女の節句、室町時代からの供え物に゛桃花酒゛または゛白酒゛菱餅をお供えします。
貝や魚、山菜など春を楽し具を沢山使ったちらしずし
一対の貝がらだけがぴったりと合う大人になったら、良いご縁が頂けますようにとの願いをこめてはまぐりの潮汁を頂きます。
男児の成長を祝う節句
菖蒲には特別な力があると信じられ、五月五日には菖蒲湯に入ったり、菖蒲を屋根に葺いたり、悪いことが起こらないように祈ります。
粽、柏餅を食します。
七月七日=七夕の節句(星まつり)
昔、七月七日は水の神様をお迎えする行事の日でした。
棚機つ女(タナバタツメ)とい呼ばれる女の人が夜通し機を織り、織り上がると神様にお供えをして、病気、災いが無い様にと、お願いをしました。
江戸時代に町の人にも広まり、願い事を短冊に書いて、笹竹につるすようになりました。
九月九日=重陽の節句(菊の節句)
陽の数の「九」が重なることをめでたいとして『重陽』『重九』とも言う。
中国には「登高」として、野に出て丘に登り、丘の上で、長寿を祈り、菊花を浮かべた『菊の酒』を飲んだ。
邪気を払うためにグミを入れた袋を身につけて、グミの酒を飲む。
陰暦九月九日の節句。陽の数である九が重なることをめでたしとして、「重陽」「重九』という。
そのころは菊の花の盛りでもあるので、菊の節句ともいう。
中国では「登高」と称して、岡などに登り、長寿を祈り菊花を浮かべた菊の酒を飲む。
邪気を祓うためにグミを入れた袋を見につけるととも、グミの酒を飲むともむ言う。
日本においては、宮中で寒菊の宴を催し、菊酒をかわし、臣下に詩歌を作らせた。
民間では、農事に関連した祝いの行事として、九月九日、一九日、二九日を『三九』といい、『みくにちなす』として茄子を食べる地方もある。
また、暖めた酒は、寒さに向かう境目頃にあたる重陽の日に、酒を温めて無病息災をいのったものである。
八月も今日で終わります。
明日は九月一日で立春から数えて210日目に当たります。
この頃は風雨の激しい日とされ、台風が日本にやってくるころとされています。
ところで、当店の駐車場の一角に雀のために小鳥のエサを蒔いておくのですが、ここのところ、さっぱり雀たちは姿を見せません。
稲が熟した穂を垂れる様子からみて、雀たちは稲の穂をついばんでいるのだろうか。
お米に感謝をして美味しくいただきま~す。
古今雛
衣裳に金糸、色糸を使って鳳凰薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子を用いて色彩を豊か
座雛が技術的に完成の域に達したと見られるのは次郎左衛門雛でしょう。
延享(1744年)につくられたもので、京都の岡田性菱屋次郎左衛門の創案によります。
次郎左衛門雛の特徴は、面長に描いた首を整った曲線でまとめ、顔は引目かぎ鼻の典雅な筆で全体に清新な味を表現しています。
男雛は、黒袍に、くぼみに霞の紋が浮織になっている袴をつけています。
女雛は、五衣(いつつぎぬ)・唐衣(からぎぬ)に裳(もすそ)をはいています。
雛人形の中でも佳作の部に属しているといわれ次郎左衛門雛の流行は圧倒的に江戸の人気を独占しました。
しかし宝暦九年(1759年)江戸が京都の移入を禁止したため、享の菱屋(次郎左衛門)、かぎやの江戸進出となります。
宝暦末に菱屋が江戸へ進出して以来、次郎左衛門雛は、明和、安永より天明を経て、寛政末年まで、およそ三十余年の間に、すっかり江戸化してしまったと見られます。
次郎左衛門雛の衰退は、京都に対抗する江戸人の義慣と見る向きもありますが、やはり江戸人の好みにあった江戸雛として、古今雛が登場するに及んで、全く姿を消しました。
古今雛は、明和(1764年)年末に原舟月の手によってつくられました。
古今雛が従来の雛と違う点だけをとりあげますと、衣裳に金糸、色糸を使って鳳凰薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子を用いて色彩を豊かにしたことと、二畳台を設けて雛を据えていること、頭が写生的に精妙を極めた点などがあります。
なかでも画期的な技巧は、原舟月が山車の人形の製作者だったところから、雛の両眼に玻璃玉(はりだま)を嵌め込んだことといわれます。
それから以降の雛は多く古今雛の技法を取り入れてつくられています。
宝鏡寺
〒602-0072 京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町547
江戸の中期まて、雛人形の工作舎は殆ど京都で占められていたことは前にも書きましたが京都の江戸移入が禁止されてからは、江戸は江戸、京都は京都で作られているようです。
次郎左衛門雛より少し遅れて、京都には山科雛、高倉雛が貴族階級に限られ飾られていました。
京都今出川堀川に宝鏡寺という尼寺があります。
この地では俗に人形寺と呼ばれしられています。
この寺は厄650年前の光厳天皇(1331年)の皇女華林恵厳禅尼開山により臨済宗の門跡寺院てあり、中世京洛に栄えた尼五山の一つであった景愛寺の法灯を今に伝える位(くらい)高いお寺です。
歴代皇女方が出家入山されたところから「百々(どど)御所」とも呼ばれています。
皇女方が入寺されているため、おひな祭りのたびに御所から人形が贈られて、いつの頃からか人形寺として名高くなり、由緒ある人形が数多く保存されています。
皇女和の宮さまもたびたびこのお寺へお成りになり、桂御殿のご普請中はこの寝殿にお住いになられました。
和の宮さまおかくれの後、宝鏡寺へ御遺品としてご愛用品や絵巻物など下賜され今も保存されているのは、こんなゆかりからでしょう。
この寺では年二回春と秋に新古人形の名品の展示の一般公開がございます。
春の展示には雛人形を中心に飾られます。
散歩道で今年も烏瓜のお花を見かけました。
日中は花弁は開いていませんが夕方になりますと開いてしとやかな容姿を観察できます。
田んぼも稲刈りが始まります。
ようやく暑さが和らいでくるようです。
岩槻の人形店もお盆が済みますと、雛人形の準備にいよいよ入ります。
今年も11月初旬にかけて、雛人形の準備を進めてまいりますので、今しばらくお待ちくださいますようご案内申し上げます。
貝原益軒の「日本歳時記」にのる雛遊の図
立雛・座雛を対等に一畳台に飾られている。
菱餅らしきものが三宝に載せられ、御神酒や重箱、魚などが供えられている。
雛のかたちは、立雛と座雛に分類されます。
立雛は主として紙でつくられたので、一名紙雛とも呼ばれます。
立雛の方が歴史は古く、かたちから推察しても天児(あまがつ)、婢子からからきた男女一対の雛人形のようにみえます。
座雛は寛永(1624年)以後につくられたもので、抽象的な立雛に比べて写実的な彩りにつつまれています。
面白いのは、上巳の節句、雛遊と、雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたのが座雛であるということです。
しかし、座雛がつくられてすぐに立雛がなくなったわけではなく享保(1716年)頃までは立雛と座雛は対等に飾られています。
そして享保以降は座雛が主、立雛が従となり次第に衰微をたどります。
雛市は享保(1716年)に開市されたものらしいといわれ、十間店(じっけんだな)は後に十軒店となった。
つまり、十間を限って出店が許され、場所は今の日本橋室町二丁目、三丁目にあたり、雛人形の集散地でした。
安永(1772年)頃には雛市は十軒店の外に尾張町(現在の中央区銀座一丁目)にも設置されています。
寛政(1789年)頃からは、浅草茅町、池之端仲町、麹町、駒込などにも雛市が開かれています。
十軒店が大変賑わい、華やかをみせたのは、ここでは匂うばかりの片はずしや、文金高髷(まげ)が見られ、あだものがが目白押しだったところから、見るは法楽とばかり物見高い江戸っ子が寄って、箱の人形が生きた雛と見比べるといったところから推して、ここは歓楽的境地の傾向をおびていったようです。