人形のまち岩槻 第27回人形のまち岩槻 朝顔市
東京入谷の朝顔市にも出荷されている岩槻特産の朝顔の即売市。
朝顔のほか土産品などの販売も行います。
東京入谷の朝顔市にも出荷されている岩槻特産の朝顔の即売市。
朝顔のほか土産品などの販売も行います。
延享(1744年)に作られたもので、京都の岡田姓菱屋次郎左衛門の創案によります。
次郎左衛門雛の特徴は、面長に描いた首を整った曲線でまとめ、顔は引き目かぎ鼻の典雅な筆で全体に清新な味を表現しています。
男雛は、黒袍に、くぼみに霞の紋が浮織になっている袴をつけます。
女雛は、五衣・唐衣に裳もすそをはいています。
次郎左衛門雛の衰退は、江戸人の好みにあった江戸雛として、古今雛が登場するに及んで、全く姿を消しました。
古今雛が従来の雛と違う点は、鳳凰や薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子べにりんずを用いて色彩を豊かにしたこと、二畳台を設けて雛を据えていること、頭が写実的に精妙を究めた点があります。
神社の境内には竹を芯にして「青茅萱」で輪をつくり立てられます。
6月30日名越の祓の行事は半年分の邪気を祓い、病を防ぎ、これから始まる残り半分の無事と平和を祈る力を頂く。
12月の大祓で残り半分の厄を嫌う。
『水無月』という白い外郎に小豆を載せた和菓子を頂く習慣もあります。
立雛は紙雛とも言われるように主として紙で作られたのです。
目出度さの象徴の松竹梅に鶴亀の柄の衣装の大型な立雛
かたちから推測して、天児、這子からきた男女一対雛人形のように見えます。
座雛は寛永(1624年)以後に作られたもので、抽象的な立雛に比べて、写実的な彩りに包まれています。
面白いのは、上巳の節句、雛遊びと、雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたのが座雛であるということです。
しかし、座雛が作られてすぐに立雛がなくなったわけでもなく、享保(1716年)までは立雛と座雛が対等に飾られています。
そして、は座雛が主、立雛が従となり次第に衰微をたどります。
前立てに六文銭を、脇立てに鹿角を付けて迫力ある兜です。
【商品番号】真田幸村公創作鎧
赤備之具足平台飾り No3271
【サイズ】 間口63cm×奥行47cm×高さ73cm
(幟旗含む)
【商品番号】高野山蓮華定院蔵(伝)
幸村所用模写鎧兜 高野槙高床台飾り
No2271
【サイズ】間口90cm×奥行60cm×高さ123cm
江戸の風物詩の一つの『雛市ひないち』は、17世紀の終わり頃には町に現れていた。
雛売りは移動販売の便利さと、比較的生活水準の低い人が利用したといわれます。
『乗物ほかい雛の道具』と呼んで、葛籠を両掛けにして売りに来たものです。
明和(1764年)安永(1772年)にみられた雛売りも寛政(1789年)の頃には雛市に押され姿を消したといわれます。
雛市は享保(1716年)に開市されたものらしいといわれ、十間店は後に十軒店となりました。
つまり十間を限って出店が許され、場所は日本橋室町二丁目、三丁目にあたり雛人形の集散地でした。
大人を対象として、貴族間などに見られます。
この雛遊びが子供の世界にかなり早く広まり、雛遊びが雛祭りに発展していったとみられる根拠は、雛祭りの人形が、ひいなあそびのひいなが進化したものと見られることにあります。
雛遊びが単なる「ままごと遊び」と違うところは、必ず男女一対の人形を使っていることで、夫婦の純潔の道徳を、雛道具は嫁入りを意識したものと言われます。
雛祭りは泰平の世を迎え、武家や公家の風習は町人にも伝わり、町のひな祭りが次第に派手になった。
雛人形は長い時間をかけて女の人が人形によせる心と上巳の祓いとが一体となり形成。
雛人形はいろいろな穢れ、災いの身代わりになる大切なものとして長い時間を掛けて培われ、現代も女の子の幸せを願う親心で飾ります。
雛人形は長い時間をかけて女の人が人形によせる心と上巳の祓いとが一体となり形成されたものです。
人形、形代とは人、動物などを模した形を形取り、それに病気や穢れ、悪いものを移して身代わりになってもらうもののこと。
源氏物語、須磨の巻にある千年ぐらい前のお話しに出てくる行事で、光源氏が海辺に出て陰陽師(占い師)により祓いをし、紙を切って人の形に作り、その紙で体中をなでて、病気やけがれをこの紙の人形に移して、船に人形を載せて他界に流したとされています。
ひな祭り 日本の伝統行事 水辺の行事の無病息災を祈願しての『巳の日祓い』と『ひいな遊び』が一体となって生まれました。
一つに『巳の日祓みのひのはらい』があります。
巳の日祓とは三月の巳の日に行なう祓のことで、撫物なでもので身体を浄めて、河原に出て祓を行うことを言います。(源氏物語、須磨の巻に登場)
撫物は、紙を切って作ったもので人のかたちをした人形ひとかた、形代かたしろと呼ばれるものです。
後に撫物の変形として天児あまがつ這子ほうこがあります。
両方とも小児誕生時に作られるもので、幼児を襲う穢れや災を負わせるための形代で、男女の区別なく、天児は主として宮中で、這子は民間で使われていたようです。
これが後の立雛によく似ているところは、見逃せません。
こうして人形に穢れや災を負わせる風習が各地の流しびなです。
馬藺後立は燦然と輝く陽光を表しています。
旭日昇天という、朝日が昇る様子を表した兜と言われています。
【商品番号】創作兜飾り 織田信長公
黒塗平台飾り No3161-B
【サイズ】間口62cm×奥行40.5cm×高さ64cm
【商品番号】大阪城天守閣所蔵 豊臣秀吉
馬藺後立模写 兜飾り No5191
【サイズ】 間口65cm×奥行45cm×高さ62cm
(幟旗含む)